【 第二部 詩帖より 】  

 

昭和四十八年 秋

 

ひそやかに季節移りし さ庭辺に名残りのごとくサルビアの咲く

 

湯あがりの髪すくしぐさ身につきて少女となりし吾子に驚く

 

安らなる寝息たてつつ眠る子のつややな頬に指ふれて見し

 

ひたひたと迫りくるごとき晩秋の気配よシルクの服に冷たし

 

ことごとに口をつぐみし吾子を思ひ夕暮の道涙しつつゆく

 

 

昭和四十九年

 

連らなりし山は一夜に雪おびて伊吹の里の朝は清けし

 

音もなくたゝずまいたる空間よ養老山脈は雪に暮れゆく

 

人の世に生きるきびしさ思いつつぬるき湯浴びぬ一日の終り

 

荒れし手にそぐすべもなきマニキュアを買いたる夜は心満ちをり

 

早春の淡き陽を受けて遊園地に三色すみれ植える人あり

 

傷つきし心なぐさむすべもなし黒く冷めたきミシンに(ムカ)

 

喜びの少き日々よせめてものなぐさめ赤きばらを活けたり

 

赤煉瓦積みたる獄舎今はなし若きらが憩う公園となりて

 

生コンの廃車淋しく置かれたり小公園の夾竹桃の蔭に

 

若き日にゲーテを語りし友は今 抗ふる子の悩み話せり

 

はたはたと銀の粉撒きて燈に入りし蝶の命よ今朝ははかなし

 

生くることの価値は何ぞと思いたり指輪のにぶき光見てゐて

 

炎天に眩しきほどの色もちておにゆりが咲く名もなき駅に

 

難破せし船の残骸置きしまま太平洋の沖は凪ぎをり

 

朝露に光る芙蓉の花陰に今生れ出でし蜘蛛の子は散る

 

煤けたる無双の窓に入日差して旧街道に並ぶ家家

 

ひそやかに咲きしざくろも散り終へて確実に実となりてゆく日日

 

糸杉のなびきは全て傾きて秋荒涼となりし庭なり

 

野の花を手向けられたる石佛の欠けし御肩に残照の射す

 

シャンプーの泡掻き立てて髪すすぐ嫁と言ふ名に悩みし夜は

 

 

昭和五十年

 

喜びも悲しみも無きごとくにて(はい)(けい)はまぶた閉ぢて動かず

 

心にも無きこと言いし後悔に赤き落葉を音立てて掃く

 

小雪降る寒き夕べを電線に雀の群は動かずにをり

 

降り出せし雪避けて入る市の店明るき春の花を売りをり

 

さまざまに思ひ悩みつつゆく吾に試練のごとき風吹きてをり

 

抗ふることなく激しき恋もなく経し若き日を今は悔いたり

 

反抗期過ぎたるならむ長髪の子は甘えつつ話しかけくる

 

現つとも夢ともつかず老い父は九十二年の礼言い給ふ

 

やはらかき春の日差しに息づきて柿の若葉は匂ひ放てり

 

吾もまた愚かなる母のひとりならん子の行動を枠にはめいて

 

看病に過ぎし一日よ買物に出てきて赤信号のひとときを待つ

 

幼き日疎開地に聞きし鳩の声今日久しくも吾が庭で聞く

 

夕暮れの迫る車窓よ点点と(マツ)(ヨイ)(グサ)の白き花あり

 

地下鉄の工事進みて古き家の証となりたる井戸は涸れゆく

 

無縁佛祀りし山の石塔に供花のほうづきあかあかとあり

 

台風の過ぎしひと夜は静まりて秋の気配のただよいてをり

 

異れるおもひもちつつ子と吾は黙して彼岸花の咲く道をゆく

 

ほの暗き夕べの庭よはらはらと八ツ手の花のこぼるる音す

 

医家なりし故に祝福されずして工学部入学に旅立ちし子よ

 

歯髄をも犯す痛みにたえてゐし心の傷のそれと比しつつ

 

昭和五十一年、五十二年 父母の看病 歌作ならず

昭和五十二年八月 父逝く

昭和五十三年一月 母逝く

 

ひとりゆく黄泉路(ヨミジ)の道は遠からん足悪き母休みゆきませ

 

うつろなる心をもちて薬包紙折りたゝみたり機械のごとくに

 

生涯におしろい買いたることなしと老いて美し母言ひ給ふ

 

 

平成元年

 

油肥を昨日やりたる庭草に今朝は恵みの甘き雨降る

 

茶山花の枝に止まりてたわむれし色まだうすき小雀の群

 

胸せまる郷愁に似し思ひして甘酸き藤の花房を受く

 

未だ目の開かぬ幼き子猫らは母の乳房をもみつつ含む

 

盲いたる猫も哀れよ目ありても見えぬものある吾もしかるに

 

この哀れ盲いし猫の吾が膝に抱かれて深き眠りに入りぬ

 

癌と言ふ名におののきの足ひきて入院したる小雨降る朝

 

病室に乙女の祈りの曲ひゞき食事知らせるアナウンスなる

 

癌よりもこわき病のあまたある事を知りたり入院すれば

 

なすことのあまた残りしこの吾に何故に病魔の魅入りたりしか

 

束の間の病床なれど白百合とみやこ忘れを生けて後にす

 

春光をはじきて上る噴水のアプローチ出でし退院の午後

 

夫の愛 母の祈りと御仏の慈悲受けいのち賜はりしわれ

 

ねぎ坊主ばかり並びて生ふる畑 高層ビルの横に広がる

 

真青なる五月の空に弧を描き飛行機雲の果しなくゆく

 

万歩計携えてゆく月夜道つつじ花陰あはあはと浮く

 

減食の吾にはつらきケーキ屋の前にたゞよふバニラの香り

 

つるばらの赤ちりばめし生がこい中に住めるはメルヘンの人か

 

コーヒ店好まぬと云ふ夫とゐて緑茶に足らひし休日の午後

 

世に疎く経験乏しき吾なれば箱入妻と自らに云ふ

 

学問の情熱ほとばしり出るごとく手紙に綴りし若き日の彼

 

卒演の子のピアノなるドビュッシー テープ出づれば懐かしみ聞く

 

茶山花の新芽ほのかに香りだちみないちように天さし向きぬ

 

未だ野の香り保てるたらの芽の(うぶ)()いとしも油に入れがたき

 

あえかなる夜の光を吸ひて咲く月下美人の震えかすかに

 

夜を待ちてこの夜を待ちて極まれる月下美人の透る薄紅

 

方形に刈り込まれたる外路樹の緑ひときは冴えし梅雨の間

 

ご自由にと書きて切り花置かれいて教会の門の夜の静もり

 

新緑の葉陰に渡る風やさし夜の歩道に和みつつゆく

 

かぐはしき香りたちこむバラ園にひととき遊ぶ三十五年婚(さんごこん)われら

 

地下鉄の通りし音のくぐもりて地底より湧く夜の歩道に

 

核心にふれる言葉をのみ込みて子と向ひをり安らぎもなく

 

夜に入ればかすかに涼し風吹きて真夏のひと日終らんとする

 

つゆ草とねこじゃらし咲くこの空地かつてのそば屋のこわされし跡

 

人参とキャベツ刻みて火にかけし糖尿食のわがための菜

 

おしみなく働きしこれがみかえりか寝ぬれば疼く腕の骨指の骨

 

磔の刑のごときに寝ねたれば身じろぎも得ず両肩重し

 

散水の車より出づ水滴は二重の虹となりて地に降る

 

ゆらゆらとかぎろひたてる真夏日の道 相乗りのバイク駆けゆく

 

ひと夏にいく度も咲くさるすべり植えましし母の(オモカゲ)()

 

松喰いの虫じわじわと葉を喰みて丸まり落つる松かさのごと

 

紅を引くのみの化粧もまな下に老ひ見え初めば粉はたかんか

 

忙しき盆を送りて一息を入れし厨辺秋しのびよる

 

年毎に増えし飼猫十二匹餌与ふわれにみな媚びて寄る

 

原宿に似せし名古屋のルーツストーン ビルの間にあかまんま咲く

 

嫁入りに姑持ち来しとふかねつぼの形まろきに干梅貯ふ

 

台風の過ぎたるならん立ちこめし黒雲東へ走るかにゆく

 

角一つまがれば風の起こり来て吾が頬を打つぬくき雨足

 

転生を望む情熱持たずゐて夕べ色濃き鶏頭を切る

 

鳴海より飯田へ塩を運びしとふ街道路地のごときに残る

 

馬と人往きし昔日秘めしまま塩付街道は細きに残る

 

ままごとに摘みて遊びし おしろい花 夜の散歩路咲くを見つけり

 

一瞬の雲の去来に明るみし中秋の明月照らぬを惜しむ

 

十時間もの手術の助手を終へし子は患者の家族の心労を云ふ

 

自らの求めし道よ病む人の心をも救ふ医者であれかし

 

天平のいらか伝へし産土(ウブスナ)の社静もりて風のみ渡る

 

吾が住めるこの地は昔海と云ふその名も阿由知潟石仏村

 

敬虔な祈りさゝげし村人の吐息の聞こゆ石仏の前

 

糖尿の小さき錠剤爪に割り生保つべし四分の三服む

 

ひとたびは()ひたしと思ふヨーロッパいのちあへぎつつ遠くなりたり